第15章 人新世
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人間は、ヒトという種が誕生して以来、ほぼ全歴史を通じて、地球上の動物相のなかではマイナーな存在だった
もし、10万年前に異星の博物学者アリスがはるばるやってきて、地球全体の全生命についてほぼ完璧な調査を行ったとしたら
海
大きめの生物の中では特に魚類の多様性や個体数に印象付けられただろう
陸上
植物と菌類が顕著に目立つ
脊椎動物と呼ぶ生き物の中で最もアリスの印象に残ったのは鳥類だろう アリスは霊長類に間違いなく気づいただろうが、気に留めたのは個体数や生物地理的分布が限られているということ 最も注目すべきは樹上生活をするもの
地上生活を送るものも少ないが存在する
ユーラシア大陸とアフリカ大陸の各地で見られたが、どの地域でも特に個体数が多いわけではなかった
この直立二足歩行霊長類には種類があり、ユーラシア大陸ではおそらく4種類、アフリカ大陸には1種類がいる
アフリカの直立二足歩行類は個体数が少なく、生態学的な重要性が低いため、最終報告では脚注にふれる程度になっただろう
このアフリカの直立二足歩行霊長類がいつか地球を支配する
もしアリスが3万年後(現在から7万年前)にやってきたとしたら
ヒト(アフリカの直立二足歩行類)については、脚注ですら触れなかったかもしれない 研究者によれば、その頃、大規模な噴火(トバ火山)の直接的・間接的影響により、ヒトはほとんど消滅しかかっていた しかし、私達は生き延び、大噴火から1万年も経たないうちに、アフリカ頭部、南部、北部で見られるようになった
とはいっても、異星のナチュラリストの興味を引くほどの個体数ではなかった
ところが、その後の約5万年は人間にとっていい時代であり、人口が増えるに従い、他の生物に対して直接的・間接的に与える影響も増大していった
特にドラマチックなのは、多数の植物の作物化と動物の家畜化
人間の台頭
同時期に存在していた他のヒト科人類に比べ、わたしたちの身体的な特徴としておそらく最も際立っていたのは、人類学者のいう(頑健さとは対照的な)「優美さ」 全体的にからだがほっそりしている
歯は小さく骨は細く、強力な筋肉に欠けていた
同属の中では四肢が長めでもあった
行動的な特徴としては、まだそれほど大したものではなかっただろうが、言語スキルの前段階的なものがあっただろう ただし、ミトコンドリアDNAでは母系しかたどれないことを留意
出アフリカとその後の分散が起こった時期の推定にはかなりのばらつきがあるが、それは、ミトコンドリアゲノムの特定部分における突然変異に関する仮定が、研究者によって異なるから
シナイ半島を通って中東へ抜けるもの
紅海の南側からサウジアラビアを通って南西アジアへ抜けるもの
南西アジアから先は、人類は割と急速にインドに移動し、東南アジアを通って、4万年前までに、おそらくそれよりも数千年前にはオーストラリアに入ったと考えられる
それとは別に、もっと短いルートで南西アジアからアナトリア(小アジア)を通って南東ヨーロッパに入ったのは4万年前
ヨーロッパ西部あるいは南西部から中央アジアに入ったのはやや遅れて約3万年前のこと
南東ルートから中国に入ったのも同じ頃
2万年前までにはシベリア北東部に到達していた
そこからさらに東へ向かってベーリング陸橋を通り、北米へ向かった者たちもいた 北米に最初に到達したと推定される時期はさまざま
控えめに見積もって1万4000年前というところだが、もっと早かったかもしれない
南西アジアからオーストラリアへの移住と同様に、北米大陸の北西部から南米大陸の最南端まで急速に、おそらく太平洋沿岸を通って広がっていった
人間が初めてユーラシアに到達したとき、ヒト科の他の種が少なくとも二種生息していた
化石からもDNAを抽出することができるようになった
その結果、すでにネアンデルタール人とデニソワ人の完全なゲノムが手に入っている
このゲノム情報からは、ヒトとネアンデルタール人とデニソワ人は、近くにいたときでも、概して互いに混じり合うことはなかったことが示唆される
だが、いつもそうだったわけではない
ヨーロッパ人および一部のアジア人のゲノムには、ネアンデルタール人のDNAが2~4%入っているし、オーストラリアのアボリジニーや一部の太平洋諸島の人々にはデニソワ人のDNAが6%入っている アジア人の多くは、デニソワ人のDNAをわずかに(0.2%)もち、ネイティブ・アメリカンも同様
どのデータも、先に説明した人間の移動ルートと一致している
ネアンデルタール人とデニソワ人が分岐したのは約30万年前だが、その後、彼らの間でも密会が行われていた
デニソワ人のゲノムには、それよりももっと前の、第4の未知のヒト科とのあいびきの痕跡も見られる
アフリカ人の集団にはネアンデルタール人やデニソワ人、あるいは未知の第四のヒト科の痕跡はまったくないことに注目したい
このような交雑はすべて、出アフリカのあとに起こった
狩猟採集から農業へ
3万年前までに、ネアンデルタール人はほとんど姿を消してしまった
デニソワ人も同様
特にネアンデルタール人がなぜ絶滅したのかについては、あれこれと憶測されている
人間のせいであり、優れた文化によって親戚たるネアンデルタール人を打ち負かしてしまったのだという者もいる
イヌの家畜化について研究している専門家の多くは、当時の親密度はそこまでではなかったと考えている
気候の変化がネアンデルタール人にとってよい方向に作用しなかったのは確か
ネアンデルタール人およびその獲物は寒冷な気候に適応していた
人間がユーラシアに入ったのは、気候が途方もなく変動する時期のことだった
約2万年前は、200万年前から続いていた氷河時代のなかでも、気候はもっとも寒冷だった
ヨーロッパの大部分と北アジアは氷に覆われていた
海面は現在より120メートルほども低かった
その後、気候が暖かくなり始めると、寒さに適応した植物や動物は北方に退却し、以前はもっと南方に生息していた動物相や植物相に取って代わられた
狩猟採集生活には理想的な状況であり、まだ当時の人間はそれ以外の生活をしたことはなかった
特に採集にはうってつけ
この知識は、定住的な生活へ向かうための基礎
収穫物が余ったら、ある程度は貯蔵された
では何が変わったのか?
人間の進化において非常に重要な出来事の一つ
わたしは「行動的現代性」よりは「文化的現代性」のほうを好む。「文化的現代性」という語は、何にせよわたしたちを現代的にした集団的な性質を反映しているからである
アフリカでホモ・サピエンスが最初に出現してから、考古学的な証拠として、明白に人間のものだと思われる洗練された文化的なものが見出されるようになるまでには、少なくとも10万年の開きがある そうした洗練の指標として考古学者が探索するのは、埋葬や小舟による航海、骨や角など石以外の材料の多用などの証拠 さらに、彩色し細工を施した装飾品が見つかれば、身体装飾という特に象徴的な行動が行われていたことの証拠になる 解剖学的には現代型であるヒト(解剖学的現代人)と行動的・文化的に現代型であるヒト(文化的現代人)との間には線引ができると考えられる ヒトの最初の化石の出現と、明らかに人間が作ったと考えられる最初の加工物の出現が年代的にずれていることから
何が前者から後者への以降を引き起こしたのかについて、推論が多数挙げられている
だが考古学者の多くはこれに異議を唱えている
象徴的行動を示す証拠は、いまや10万年前にまでさかのぼって発見されているからだ
なかにはもっと早かったと考え、文化的現代人への以降はもっとゆるやかに起こったとする人たちもいる
移行年代問題についてどの学説を支持するかにより、解剖学的現代人から文化的現代人への移行を引き起こした要因についてどんな説明を養護することになるか、自ずと決まってくる
その説明は、概して、生物学的な進化を重視する派と文化的な進化を重視する派の2つのカテゴリーに分けられる
どちらの陣営にも様々な意見を持つ人がおり、重視する度合いの問題とも言える
さらに、生物学的進化と文化的進化の要因を率直に組み合わせるという第三の陣営もあり、これに賛同する人が増加中
この第三のカテゴリーを「生物文化的進化派」としよう
人間による支配には文化的進化が最重要であると認める一方で、生物学的進化が常に役割を果たしており、さらにもっと重要なこととして、生物学的進化と文化的進化の間に複雑な相互作用があるという見方をするもの
ヒトゲノムに答えを探す
FOXP2遺伝子の発見は、この考え方の支持者たちによって大歓迎された このタンパク質はFOXPとして二番目に発見されたものなのでFOXP2と呼ばれる
FOXP2遺伝子はヒトでは複数の組織で発現しているが、なかでも脳で顕著
この証拠に基づき、チンパンジーゲノムからFOXP2遺伝子を探し出してヒトのFOXP2遺伝子と比較したところ、両者の間に二箇所の違いが見つかった
チンパンジーのFOXP2遺伝子は他の霊長類のものとにているので、ヒトがチンパンジーから分岐したあとに、ヒトのFOXP2遺伝子に変化が起こったのだと考えられた
この変化がわたしたち独自の言語能力の進化に関わっているのではないかと提案された
ほとんどの人類学者は、言語が人間独自の属性であるという意見に同意し、チンパンジーだけでなく、ネアンデルタール人にもなかったと考えている
ところが、ネアンデルタール人もデニソワ人も、ヒトとまったく同じFOXP2遺伝子を持っていたという驚きの結果が得られた
ヒトのFOXP2がすべての鍵を握っているわけではないのかもしれないし、言語の進化はヒト種誕生以前から始まっていたのかもしれないし、その両方かもしれない
いずれにせよ、実際に大躍進があったとしても、ヒトにおいてFOXP2遺伝子はFOXP2タンパク質のアミノ酸配列を置換させはしたが、大躍進を引き起こした張本人ではありえない
もちろん、FOXP2遺伝子では人間の誕生を説明できないといっても、生物学派の立場が弱まるわけではない
急速な解析を可能にする次世代シークエンス技術の到来によって膨大なデータが得られるようになり、それをもとにヒトゲノムに隠された財宝を探し出そうという試みが行われている ゲノムに隠された財宝を識別する手段としてよく使われているのは、ヒトとチンパンジーが分岐して以来、DNAの特定の部分の塩基配列がどの程度の差を生じていりうかを計測するという方法
HARのほとんどは非コード領域内にある
HARの中でも最も変異のスピードが早かったのは、HAR1という領域 ここで紹介したヒトとチンパンジーのゲノム比較は、ヒトの独自性を考える上で、どれも根本的な問題がある
ヒトとチンパンジーの分岐は少なくとも500万年前に起こったが、それ以後、多数の種が誕生した
ヒトとチンパンジーのゲノム比較により、チンパンジーとの違いを引き起こしたものの手がかりが得られるのは確か
しかし、ヒトの独自性は何によるのか、特にどうやって私達が家畜化をする者となったのかについての手がかりは、それほど得られない
そのためには、わたしたちともっと近縁の種のゲノム情報が必要
幸いなことに、近年、ネアンデルタール人とデニソワ人の核ゲノムの塩基配列が決定された 今の所、ゲノムのなかで、ヒトがネアンデルタール人やデニソワ人、あるいはその両方とわずかに異なる部分が80ヶ所同定されている(Pääbo, 2014) 生物学派の多くは、この違いに文化的現代人の進化の答えがあると考える
しかし、それ以外のところに答えを求める人たちもいる
文化的進化という側面
思考実験: 1776年あたりのNYから現代のNYに異邦人アレックスがやってくる
アレックスはニッカーボッカー、つまりニューヨークの貴族階級みたいなものの一員(オランダ移民の子孫)
アレックスは1776年のアメリカの文化に適応していても、今のNYの状態にはまったく対処できないだろう
アレックスの脳内の配線は実際わたしたちとは異なっているだろう
脳の配線の違いが、文化的進化の一つの現われ
文化的進化の特徴の一つは、生物学的進化に比べてスピードが速いこと
20世代も経たないうちに、アメリカの文化は計り知れないほどに変化した
その期間中に、生物学的進化はそれほど進まなかった
生物学的進化に比べて文化的進化が相対的に速いのは、両者のダイナミクスが根本的に違うことを反映している
ダーウィニズムとは、遺伝する変異(突然変異)は環境条件、ひいては適応とは関係なく、ランダムに起きるということを意味している
この意味で、方向性はない
ラマルキズムのダイナミクスはまったく異なっている
環境が変異(技術革新)を誘発し、その環境下では、ランダムに生じる変異よりも、環境が誘発する変異のほうが生存率を高め、適応的である可能性がはるかに高いとするもの
この意味で、ラマルク的進化には方向性がある
どんな文化であれ、文化的財産(知識)が漸進的に増加していくのはラマルク的
しかし、同様に重要なのは、適応的な変異が集団内に伝達されていく時の方法が異なること
ダーウィン的なダイナミクスでは、伝達は親から子へと伝わるのみ
つまり、垂直に伝達される
そのため、世代時間によって制限されるのだが、人間の世代時間はきわめて長い 文化の伝達にも垂直的なものがあるが、それに加えて斜め方向(親以外から次の世代への伝達)や水平方向(同じ年代の個人から個人への伝達)もある
多用な方法で伝達されるため、文化が変化するスピードは尋常ではないほど急速になる
文化的変化が相対的に速いことから生じる結果として、まず挙げられるのは、人間の表現型、特に行動が進化する可能性が多いに高まること
人間の生物学的進化は世代時間によって制限されている
人間の世代時間は哺乳類の中でも最長の方だが、文化的進化のおかげで、わたしたちはネズミさえ敵わないほど速く、物理的な環境に対応できる 文化を介して物理的環境に対応する例が広く見られるので、人間の適応の多くは、文化的環境への適応ということになる
文化自体は個人の特質ではない
文化は、複数の個人からなる社会の集団的な特質
ここで「社会」というのは、それぞれの活動が統合され組織化されている複数の個人の集まりを指している
これもまた、文化的進化が生物学的進化とは根本的に異なるところ
集団で活動するという性質こそが、人間を支配者の地位へと押し上げた
仮に初期の人間が今のわたしたちの10倍賢かったとしても、単独行動が常であったならば、家畜化を行う側にはならなかっただろう
わたしたちの高度な社会性を可能にした情動面での変化のほうが、知性よりもよほど重要だった
文化的進化に関するこういった事実を、本章の最初のほうに投げかけた疑問とつなげる
「ヒトが文化的現代人の状態になり、最終的に家畜化を行う側になったのには、いったいどのような要因があったのだろうか?」
狩猟採集生活から農耕生活への移行は、人間の進化の歴史の中で、将来を決する出来事だった
農業は、認知面で特異な突然変異が起こった孤独な天才による発見ではなかった
むしろ、集団として文化的な探求を行った結果
環境の変化により狩猟がしにくくなったことへの対応だという研究者もいるし、植物を採集して管理しやすくなるように状況が変化したことを重視する研究者もいる
いずれにせよ、最初に近東、のちに中国ほかいたるところで、人間社会は長期間にわたる協働によって、その地に生息する植物に関する詳細な知識を手に入れ、その集合知を用いて、コムギ(およびトウモロコシ、オオムギ、ライムギ、 イネなどの草本)やマメ類、ヒョウタン、 イチジクなどの果実を管理するようになり、食物供給の安定化と供給量の増加を図った 食肉については、同様の目的のために、ウシやヒツジ、ヤギ、ブタを管理する様々な方法が創始され、農耕が行われるようになるとますます定住傾向が強くなった その時点から、文化的進化に特徴的なフィードフォワード的ダイナミクスにより、先述の植物や動物に対する管理の度合いはますます高くなっていき、ついには、作物化・家畜化だとはっきり認められるほどになった
家畜化の開始も、その先の過程の様々などの段階も、ただひたすらに文化的進化によって推し進められてきた
それならばなぜ生物学派は、解剖学的現代人から文化的現代人への進化を説明するのに文化的進化以外の何かが必要だと確信しているのだろうか?
この疑問に取り組む前に、第三の生物文化的進化について考える必要がある
生物文化的進化
文化的進化が最重要の役割を果たしたと認めながら、その一方で、生物学的進化も絶えず働いていたという見方をする
さらに重要なのは、この生物文化的な観点では、生物学的進化と文化的進化間での複雑な相互作用を重視していること
理論的枠組はいくつかあるが、いずれもこのカテゴリーに属する
酪農を行う集団でラクトース(乳糖)耐性が進化したという、典型的な例で説明するのが最もわかりやすいだろう 酪農という文化的な技術革新により新たな文化的環境が登場し、その環境下でラクトースの消化能力を対象とする自然選択が起こった
ラクトースを消化できない人たちは、酪農集団内の自然選択では不利であり、子どもの数も少なかった
この選択の結果、酪農への依存度の高い集団内では、ラクトース耐性をもたらしてくれる突然変異が急速に広がった
この2つは遺伝子―文化の共進化の例だが、まず文化的進化が最初に起こり、それに続いて生物学的進化が起こったという点に注目したい
この順番は、わたしがこれまでに調べたかぎりでは、遺伝子―文化の共進化の度の例にも当てはまっている
文化が推進する生物学的進化の他の例として、複数の疾病が挙げられる
その多くは家畜動物に由来するもの
家畜化による間接的な結果として、人間が被ることになった災難も複数ある
村落や都市で人間は過去に例を見ないほど近接して暮らすようになり、同時にこのような齧歯類との距離も近くなった
ヒトゲノムは家畜化によるこういった副産物の影響を受けてきた
先述の疾病にさらされた人間集団では、程度は異なるものの耐性が進化している
黒死病の流行歴のあるユーラシア人集団では、選択によって、このタンパク質の遺伝子がペストへの耐性をもたらすものに変化したことが、ゲノムに現れている
これもまた、文化―遺伝子の共進化
文化が自然選択を促すような環境をもたらし、その結果、遺伝子に変化が生じた
文化的進化が人間の生物学的進化を推進するようになったのは、農業革命が起こるよりもかなり前である
実際、ヒトがアフリカという舞台に登場した約20万年前よりもずっと前のこと
ヒトが登場する以前に起きた文化的革新として、特に画期的だったのは料理の開始である 料理は消化しやすくするための処置であり、肉でも植物でも料理したほうがカロリーの摂取効率が高くなる
料理の開始時期は様々な説があるが、25万年前か、それよりもっと早い時期から、ホモ属が日常的に料理を行っていたという点では広く意見が一致している 料理開始以来、人類が料理に適応して生物学的に変化してきたことを示す証拠が当然見つかるはず
料理への適応として可能性として挙げられているもの
料理という文化的革新に対するこうした生物学的な反応もまた、文化的進化が生物学的進化を推進する例
文化によって推進される生物学的進化のこのようなダイナミクスは、最初の疑問にどのように関わってくるのだろうか?
まず示唆されるのは、関連する認知的進化に自然選択がどのような役割を果たしたにせよ、その自然選択は、文化がもたらした回避不可能な事態によって引き起こされたのだろうということ つまり、文化的進化が推進力となり、自然選択がそれに引っ張られたというわけだ
近年、この「文化ファースト、生物学セカンド」というダイナミクスにより、結果として人間の自己家畜化は前章で述べた段階よりもさらに先まで押し進められていたという説が提唱されている
人間の文化的環境への適応としての自己家畜化
ドアとヤブロンカはまず、ここ数十万年の間、人間の認知的・情動的な進化を引き起こしている環境は、なによりもまず文化的状況によってもたらされているという前提から出発している 原始的な言語(原言語)は文化的ダイナミクスから立ち現れた人間の認知能力の一つであり、生物学的進化はあくまで二次的に、ボールドウィン効果(→第4章 その他の捕食者)に類似した過程を通して、わたしたちの言語能力を安定化させて高めたに過ぎないとする 言語の進化に対するこのような見方は、スティーブン・ピンカーなどの進化心理学者が擁護し、広く受け入れられてきた見方とは大きく異なっている このモジュールはおそらく、FOXP2遺伝子のような単一あるいは複数の突然変異を起源として人間の系統樹に登場したと考えられる
この突然変異に限ったことではないが、どの突然変異ももともとはある特定の個人に生じ、その後ヒトという種内に急速に広まったもの
言語に関わるこの突然変異が土台となって、人間の文化は現代型の文化の状態にまで複雑化し、おそらくそれが大躍進(と推定されているもの)の土台となった
進化心理学ではよくあることだが、これは生物学ファースト(あるいは遺伝子ファースト)的な見方である
ドアとヤブロンカは、この議論を基本的に逆転させている
彼らによれば、先に来たのは文化的進化
言語は文化的環境への二次的適応だった
ドアとヤブロンカが強調するのは、言語は個人の形質で出現したとしても、その個体は自分自身に話しかけるしかないわけだから、ダーウィン的ダイナミクスのなかでは自然選択上の利益をもたない
言語が発達するためには、その能力を作動させる文化的な言語環境があらかじめ存在していなければならない
この見解を立証するために、ドアとヤブロンカはカンジというボノボを引き合いに出している カンジはレキシグラムを用いて人間の三歳児と同レベルのコミュニケーションをとれる ただし、このとき用いる言語は、人間がすでに発明したものだけ
カンジが人間の文化的環境の枠をはみ出して能力を発揮することは決してなかった
これは、ボノボなど類人猿の認知能力が不足しているからではない 言語を獲得するのに必要な文化的な足場を集団で作り出すのに必要な、集団としての能力が欠けているから
この文化的足場はそれ自体、文化的進化の累積的な効果によって得られたもの
ヤブロンカとドアの観点によれば、言語は汎用ではなく特殊な目的専用の適応であることも含め、人間の他の認知とよく似ている
さらに、言語の進化と情動の進化は密接に関係している 特に言語の進化にはある情動的な前提条件が必要である
言語による情報の共有が可能になる段階にまで、集団での協力を押し進めて安定化するためには、情動の高度なコントロールと社会的感性(恥や罪悪感、決まり悪さなど「より高度な」社会的情動として表される)が根本的に必要だった
ヤブロンカとドアは、このさらなる(おそらく人間特有の)情動的な進化を、自己家畜化の特殊な形態だとみなしている
そういった自己家畜化は、今度は私達の言語能力がさらに進化することによって強化され、それによって人間の情動的世界がさらに広がり、ユーモアや社会的アイデンティティ、意志などを含むまでになった メタファーを使うことんいより、情動的反応はますます研ぎ澄まされ、さらに複雑な社会的状況にふさわしいものになった このような見解は確かに魅力的であり、進化心理学という窮屈な枠組みを鮮やかに超えて見せるものではある
しかし、あいにく、そのままでは、この言語―情動の共進化仮説は、進化心理学における多くの「理論」と同じ欠陥を抱えている 「サンプル数1」問題である
仮説を検証する方法を考え出すのが困難
文化は人間特有のものではないが、人間レベルの文化は地球の生命の歴史上、前例がない
唯一無比であるがゆえに、ドアとヤブロンカのような提案を主流の進化生物学の基準を用いて評価するとなると、特に難しい
それにもかかわらず、ドアとヤブロンカは、自己家畜化は人間の文化的進化の原因であるだけではなく、結果でもあるという興味深い見解を示唆している
そして、言語とその他の高次認知能力に関して、特に過去20万年においては、文化の因果的な役割が顕著だという
確かに、人間が家畜化を行う側として急速に台頭した理由を説明するには、まず文化に目を向けるべきだろう
わたしたちが支配者になれたのは、生物学者が通常理解している意味での「適応」の結果ではなく、環境の側を自分たちの目的に適応させたからであり、家畜化はその一例
家畜化と人間のニッチ(生態的地位)
「ニッチ」は生態学における重要な構成概念であり、適応という進化的な概念の中心的な要素でもある 簡単にいえば、ニッチとは特定の種あるいは集団が生息している物理的・生物的な環境条件の総体
物理的的環境には気温や降水量、標高、土壌の状態などが含まれる
生物的環境には食物資源、捕食者、競争相手、寄生者などが含まれる
従来の考え方では、ニッチを規定する物理的・生物的条件はあらかじめ与えられた(既存のもの)であり、生物はそれに適応しなくてはならないとされてきた
第一に、ニッチの定義の問題があるという
どの環境にも、物理的・生物的な変数が無数にあり、所与の生物に関係するのはその一部分だけ
ということは、ある生物のニッチをその生物だけで定義することはできない
さらに、能動的に働きかけて自身のニッチを作り出している生物も多い
例えば哺乳類の多く、特に齧歯類などは穴の中で生活しているが、それは自分たちが掘って作ったもの この穴内部の環境的条件は、穴なしの場合と比べて大きく異なっている
穴を掘る生物は新たなニッチを作り出している、あるいは構築している
ニッチの構築は生物に広く見られる
哺乳類の中でもビーバーは模範的なニッチ構築者であり、環境を巧みに操作して自分たちの目的に合ったものにする プレーリードッグのような社会性のある齧歯類は地下に複雑な構造を作り出し、そこから遠く離れることはほとんどない 地下にプレーリードッグの「街」があると土壌の条件や水はけの状態などが変化するため、地上の草原(プレーリー)までも「街」が地下にある領域はそうでない領域に比べてはっきり異なっている
プレーリードッグの例が示すように、社会性(群居性)はニッチ構築の効果を大きく増幅することがある アリ塚内では気温と湿度だけではなく、酸素や二酸化炭素も細かく調節されている
それ以上に印象的なのは、ハキリアリが地下に作る、複雑でときには数千平方メートルにもわたって広がる構造物 だが最高のニッチ構築者はわたしたち人間である
環境に対して適応するというよりは環境を適応させている
人間のニッチは人間自身が作り出したもの
植物の作物化や動物の家畜化は、この点で、影響力の強い成果の一つであった
革命のあとに
農耕はついにはほぼすべての社会を飲み込んでしまったが、辺境では伝統的な狩猟採集社会が残された
農耕は、以前は普遍的だった狩猟採集生活を周辺に追いやり、多大な影響を与えた
その結果の一つが定住生活と、それによりもたらされる都市の生活
これはヒトという種の歴史における新たな展開だった
大規模な集落の形成は宗教的生活に大きな変化をもたらした
アミニズムは、自然界をもっと階層的にとらえて投影するものに取って代わられ、その霊的な(スピリチュアルな)土台となるものが想定された この宗教的な展開は政治的な展開と密接に関係していた
特に階級制の強い社会組織では、最高指導者が地上における神の代理人あるいは神の顕現として機能することがしばしばだった
このような宗教的変化がさらに大きな社会の社会的秩序を維持する上で決定的な役割を果たしたのは疑いない
人間が都市環境に集中することにより、芸術や技術など、文化的進化のペースが大きく加速した
芸術的な革新は都市や宮廷内に限定されることが多かった一方で、技術の発達は普及して広い範囲に影響を及ぼした
そして、人口が急速に増加した
人口増加とともに人間がさらに集中し、技術はますます発達した
このフィードフォワード的なダイナミクスは今日に至るまで続いている
このダイナミクスが人間以外の自然界に与える影響はますます大きくなっていった
私達人間が生態的状況を支配し、他の生物はその中で進化するようになった
多くの生物は、この人間が作り出した新たな環境に適応できず、ニッチ構築もできなかった
人間は、狩猟採集民でさえも、他の多くの生物に悪影響を与えている
オーストラリアに人間が到達したのちに多数の大型哺乳類が絶滅した(この絶滅に人間が果たした役割は論争中である。たとえばWroe & Field, 2006を参照)し、南米・北米に人間が到達したときも同様(これもまた同様に意見の相違がある。新世界の大型動物相の絶滅において、人間や気候の変化が果たした役割が相対的にどの程度の影響をもたらしたかについては論争中である。Barnosky et al., 2004はバランスよくこの話題を扱っている) 特に島々は、大型の島でさえも脆弱だった
ニュージーランドではマオリ族が達した後にモアが、マダガスカルでは人間が居住するようになってからエピオルニスがほとんど姿を消した ポリネシアの小さな島々では、鳥類の絶滅がそれ以上のスピードで進行した
しかし、農業革命後、人間の足跡はさらに巨大になり、その結果、自然界の大部分が踏み潰された
農耕を行うには自然の植生を除去した土地が必要
人口増加に伴ってその土地も拡大する
技術革新によって、近場にいる野生生物をますます効率的に搾取できるようになった
人間の技術や人口増加による間接的な効果は、もっと広範囲にわたる結果をもたらしている
気候の変化や原子力施設の三時
今日、手つかずの自然などどこにもない
過去の大絶滅を引き起こしたのは、大規模な地質学的な出来事や天体の衝突、あるいはその両方
わたしたちは、生物的環境内で優勢な構成要素であるだけでなく、地球上の物理的環境にまでインパクトを与える主要な存在になってしまった
地質学的な力を及ぼしてしまうことさえある
実際、地球に対する人間の物理的なインパクトを認めて、地質学的に名称を与えようという考え方が一般的になりつつある
氷河時代(およそ260万年前~1万2000年あたり)は更新世と呼ばれている 今、農業革命の始まった時期以降を新たな地質年代として名付けようという動きがある